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幕末から明治にかけて、日本の近代化に貢献した人物を紹介しております。
政治家・軍人・実業家・学者・文学者・芸術家・幕末の偉人の項目で分類し、
生誕年順に掲載しております。写真は国立国会図書館HP掲載を中心に紹介。

【ページ内リンク】   軍人  実業家  学者  医学者  文学者  芸術家  幕末の偉人      

【政治家】   
     
大久保一翁
おおくぼいちおう
1818〜1888
江戸 幕臣
子爵
幕末には老中阿部正弘に見出されて目付・海防掛に任じられた。その後、勝海舟の能力を見出し登用させるなどした。軍制改正用掛や駿府町奉行や京都町奉行を務めた。将軍継嗣問題で井伊直弼と対立し失脚。井伊直弼没後、幕府より復帰が許され、外国奉行・大目付・御側御用取次などの要職を歴任した。鳥羽伏見の戦い後、勝海舟や山岡鉄舟らと江戸城無血開城に尽力した。維新後は静岡県知事・東京府知事を歴任した。
勝安芳(海舟)
かつやすよし
1823〜1899
江戸 幕臣
幕末三舟
伯爵
幕末は開国に関する海防意見書を提出し大久保一翁の目にとまり役入りした。その後長崎海軍伝習所に入所。咸臨丸で遣米使節団の補充員として渡米した。帰国後、軍艦操練所頭取を経て軍艦奉行に就任し、神戸海軍操練所を開設。保守派から疎まれ軍艦奉行を罷免されるが、2年後に復帰し第二次長州征伐の停戦交渉を任される。鳥羽伏見の戦い後、官軍の東征が始まると、幕府軍の軍事総裁として西郷隆盛と談判し、江戸城無血開城を実現させる。維新後は海軍卿や枢密顧問官を歴任した。
佐野常民
さのつねたみ
1823〜1902
佐賀藩
伯爵
佐賀七賢人
幕末は緒方洪庵の適塾などで医学を学び、長崎海軍伝習所に一期生として参加。佐賀藩の三重津海軍所の監督となる。その後、パリ万国博覧会に参加。その会場で国際赤十字の組織と活動を見聞や西欧諸国の軍事や産業を視察して帰国。維新後は、初代燈台頭に就任し、西洋式燈台の建設にあたる。西南戦争が勃発すると、戦場で負傷した将兵を看護する為に、博愛社(赤十字社)を設立。ほか、大蔵卿 元老院議長 農商務大臣などを歴任。
関連施設:日本赤十字社中央病院病棟
岩倉具視
いわくらともみ
1825〜1883
公家
太政大臣
維新十傑
孝明天皇の侍従となり、日米修好通商条約締結の阻止を画策。公武合体派として和宮降嫁を推進し尊王攘夷派から非難され幽居。以後、倒幕派として大久保利通らと王政復古のクーデターを画策。維新後は明治政府副総裁や海陸軍事務総督、外務卿などに就任。版籍奉還、廃藩置県に奔走する。欧州視察の為、遣外使節団特命全権大使として引率。帰国後は征韓論に反発した。また、自由民権運動の高揚に対して、天皇中心の国家とする基礎を固める方針を進めた。
西郷隆盛
さいごうたかもり
1828〜1877
薩摩藩
維新三傑
陸軍大将
薩摩藩主島津斉彬の知遇を受け、国事に奔走。斉彬が将軍継嗣問題で大老井伊直弼に敗れ、更に急死。それに伴い失脚し奄美大島で謹慎の身となる。小松帯刀や大久保利通の尽力で復帰。禁門の変以降活躍し、坂本竜馬の仲介で木戸孝允と薩長連合を締結する。官軍東征の際は勝海舟と談判し、江戸無血開城を実現した。維新後は明治政府参議として改革を断行。征韓論に敗れ下野。西南戦争を起こし政府軍に敗れ自刃した。
大久保利通
おおくぼとしみち
1830〜1878
薩摩藩
維新三傑
元勲
幕末は公武合体運動を推進し、王政復古のクーデターを敢行。維新後は藩籍奉還や廃藩置県を推進し新政府の基礎を固める。大蔵卿を経て特命全権大使として岩倉遣外使節団に随行。 初代内務卿となり政権を掌握し地租改正など重要施策を実行。各地の士族反乱を鎮圧するも士族に暗殺される。
木戸孝允
(桂小五郎)

きどたかよし
1833〜1877
長州藩
維新三傑
幕末は吉田松陰に師事し、公武合体派・尊皇攘夷に奔走。藩の要職につき藩を倒幕派へと導く。王政復古のクーデター後、五箇条の誓文を起草。大久保らと共に版籍奉還を実現した。岩倉遣外使節団に副使として参加。以後、第二代文部卿 第二代内務卿、内閣顧問などを歴任。
大鳥圭介
おおとりけいすけ
1833〜1911
岡山藩
幕末は榎本武揚らと函館五稜郭で抵抗するが降伏し投獄された。出獄後は新政府に出仕し工部大学校長、元老院議官を経て学習院長となる。その後、清国公使として赴任し日清戦争の端をつくる。
東久世通禧
ひがしくぜみちとみ
1833〜1912
公家
伯爵
8月18日の政変により京都を追われ長州へ下る。維新後は外国事務総督、神奈川府知事 開拓長官などを歴任。岩倉遣外使節団にも随行。貴族院副議長、枢密院副議長をつとめた。
江藤新平
えとうしんぺい
1834〜1874
佐賀藩
幕末は尊王攘夷運動に加わり開国論を唱える。維新後は司法卿となり、司法制度整備や民法制定などに尽力。 征韓党首領となり佐賀の乱を起こすが敗北し処刑された。
前島密
まえじまひそか
1935〜1919
越後国
男爵
幕末は江戸に出て医学を修め、蘭学や英学を学ぶ。薩摩藩に英学教師として招かれた。江戸に戻り幕臣前島家を継ぐ。維新後はいち早く東京遷都を新政府に建議し、民部省、大蔵省に務めた。郵便制度調査の為英国に留学し帰国後、東京-京都-大阪間の官営郵便事業を開始した。「郵便」や「切手」を発案。大隈重信らと立憲改進党の結成に参加。
『日本近代郵便の父』と呼ばれる。
松方正義
まつかたまさよし
1835〜1924
薩摩藩
公爵
元老
新政府下で日田県知事、租税頭、大蔵大輔などを経て、内務卿となる。大隈重信の後、参議兼大蔵卿に就任。内閣制度発足後は大蔵大臣に就任する。その後、第4・6代内閣総理大臣を歴任。のち日本赤十字社社長、枢密院議長などに就き、日本銀行の設立、金本位制度の確立など財政指導者として功績を残す。
関連施設:那須別邸 松方正熊邸
五代友厚
ごだいともあつ
1836〜1885
薩摩藩
幕末は長崎海軍伝習所で学び、欧州諸国を巡歴。維新後の新政府では外国事務局判事や外国官権判事、大阪府判事を歴任したが官を辞し、実業に従事し、大阪株式取引所・大阪商法会議所を設立し大阪の経済発展に貢献。また、大阪商科大学など設立。
『近代大阪経済の父』或いは『大阪財界の父』と呼ばれる。
榎本武揚
えのもとたけあき
1836〜1908
幕臣
子爵
海軍中将
幕末は長崎伝習所入所を経てオランダに留学。明治元年に海軍副総裁となる。江戸城開城後、官軍による軍艦の接収を拒否し、函館五稜郭で新政府に抵抗するも降伏。黒田清隆庇護の下、北海道開拓に従事。内閣制度発足時には逓信大臣に就任。その後、農商務大臣、文部大臣などを歴任した。
井上馨
いのうえかおる
1836〜1915
長州藩
侯爵
元老
幕末は高杉晋作らと共に尊王攘夷運動で活躍。維新後は公部卿や外務卿に就く。特命全権大使として日朝修好条規の締結に関わる。内閣制度発足時に外務大臣に就任。鹿鳴館に象徴される欧化政策を展開。その後、農商務大臣 内務大臣を歴任し、引退後も元老として功績を残す。
三条実美
さんじょうさねとみ
1837〜1891
公家
公爵
幕末は権中納言、攘夷勅使、国事御用掛などをつとめ、尊王攘夷派公家の中心的存在だったが、8月18日の政変によって長州に下る。王政復古のクデーター後、新政府の議定、副総裁、太政大臣などを歴任。内閣制度発足後は内大臣に就任。
板垣退助
いたがきたいすけ
1837〜1919
土佐藩
伯爵
陸軍大将
幕末は高知藩主山内容堂の側用人などを務めるが藩の公武合体路線を相容れず、倒幕派と連携し戊辰戦争で活躍する。維新後は新政府参与に就任。その後、高知藩大参事となり藩政改革を行い、廃藩置県を断行。岩倉遣外使節団派遣後、留守政府をあずかるが、征韓論が受け入れられず下野。後藤象二郎らと民選議院の設立建白書を政府に提出。愛国公党や立志社を設立し自由民権運動指導者となる。後に自由党党首に就任。内務大臣も務めた。『板垣死すとも自由は死せず』という言葉が有名。
後藤象二郎
ごとうしょうじろう
1838〜1897
土佐藩
伯爵
幕末は高知藩山内容堂に登用され藩政の実権を握り、坂本竜馬の公議政体論に賛同し大政奉還成立に貢献。維新後は大阪府知事、逓信大臣、農商務大臣などに就任した。
大隈重信
おおくましげのぶ
1838〜1922
佐賀藩
侯爵
幕末は尊王攘夷派として活躍。維新後は参議、大蔵省事務総裁、大蔵卿などに就任。立憲改進党を組織、東京専門学校(早稲田大学)設立。内閣制度発足時は外務大臣に就任し条約改正に関与。第8・17代内閣総理大臣に就任。
関連施設:早稲田大学
山縣有朋
やまがたありとも
1838〜1922
長州藩
公爵
元帥 陸軍大将
幕末は松下村塾で学び奇兵隊の軍監として活躍。維新後は陸軍卿に就任し徴兵令の制定を推進。参謀本部長、内務卿を経て内閣制度発足後は初代内務大臣に就任。第3・9代内閣総理大臣などを歴任。
関連施設:古稀庵 無鄰菴
黒田清隆
くろだきよたか
1840〜1900
薩摩藩
伯爵
元老
陸軍中将
幕末は薩長連合成立に寄与。戊辰戦争では五稜郭の戦いを指揮した。敵将榎本武揚の助命に奔走。維新後は北海道開拓に従事し札幌農学校を設立、屯田兵制度の導入などを実施。日朝修好条規では特命全権大使として締結を行う。内閣制度発足時は農商務大臣を務め、第2代内閣総理大臣となり大日本帝国憲法の発布式典にかかわった。その後、逓信大臣、枢密院議長などを歴任した。
伊藤博文
いとうひろぶみ
1841〜1909
長州藩
公爵 元老
幕末は松下村塾で学び、木戸孝允、高杉晋作らと尊王攘夷運動に献身。維新後は岩倉遣外使節団に特命副使として参加。大久保利通の信頼を得る。大久保の死後、内務卿を継ぎ、政府の中心的位置を確保。内閣制度を創設し初代内閣総理大臣に就任。大日本帝国憲法制定を指導した。その後、第5代・7代・10代内閣総理大臣、枢密院議長、初代韓国統監などを歴任。ハルビン駅頭で独立運動家安重根により暗殺される。
関連施設:別邸 邸宅
大山巌
おおやまいわお
1842〜1916
薩摩藩
公爵 元老
元帥 陸軍大将
西郷隆盛の従弟。維新後フランスに留学、普仏戦争を観戦し帰国。陸軍創設に当たる。西南戦争時、別動第一旅団司令長官を務める。参謀本部次長、陸軍卿を経て、内閣制度発足後は陸軍大臣を歴任。日清戦争時は元老として遇され第二軍司令官、元帥、参謀総長となる。日露戦争では満州軍総司令官を務める。その後、大正時代初期に内大臣に就任。
関連施設:那須別邸
西郷従道
さいごうつぐみち
1843〜1902
薩摩藩
侯爵 元老
元帥 海軍大将
幕末は長兄隆盛の影響を受け、尊王攘夷運動に参加。戊辰戦争に従軍後、新政府に出仕。陸軍中将として台湾出兵を指揮。西南戦争時は隆盛側につかず政府に残留。文部卿、陸軍卿、農商務卿を歴任。内閣制度が創設されると海軍大臣に就任。10年に渡り海軍大臣を務め、海軍の整備・改革に努めた。
関連施設:邸宅
田中光顕
たなかみつあき
1843〜1939
土佐藩
伯爵
幕末は武市半平太の尊王攘夷運動に傾倒し土佐勤王党に参加。八月十八日の政変を契機に弾圧され謹慎。同志を集めて脱藩。長州藩に身を置き薩長同盟成立に貢献。後に帰藩し中岡慎太郎の陸援隊に幹部として参加。戊辰戦争で活躍。維新後は新政府に出仕し、岩倉遣外使節団では理事官として欧州を巡察。西南戦争では征討軍会計部長、その後、陸軍省会計局長、元老院議官などを歴任。内閣制度発足時は、初代内閣書記官長に就任。警視総監、学習院院長、宮内大臣などを歴任。
関連施設:小田原別邸
山田顕義
やまだあきよし
1844〜1892
長州藩
伯爵
陸軍中将
幕末は松下村塾で学び尊王攘夷運動に参加。戊辰戦争で活躍。維新後は岩倉遣外使節団に随行。帰国後は佐賀の乱、西南戦争に従軍し、反乱士族を鎮圧。工部卿、内務卿、司法卿を歴任。内閣制度発足時は初代司法大臣に就任。法典整備に尽力。日本法律学校(現:日本大学)皇典講究所(現:國學院大學)を創設。
陸奥宗光
むつむねみつ
1844〜1897
紀州藩
伯爵
幕末は海援隊に参加。維新後は外国事務局御用掛、神奈川県知事、元老院議官などを歴任。新政府転覆を企図した土佐立志社事件に関与し免官、5年間入獄。出獄後は欧米を歴訪して帰国後に外務省入省、駐米全権公使に就任。その後、農商務大臣、外務大臣を歴任。日英通商航海条約に調印し領事裁判権の回復を実現。対清強硬路線をとり、日清戦争開戦へと導き、講和・三国干渉を処理した。
青木周蔵
あおきしゅうぞう
1844〜1914
長州藩
子爵
幕末は藩校明倫館で学ぶ。長崎での医学修行を経て、明治元年に藩留学生としてドイツへ留学。帰国後外務省入省。駐独公使、駐オーストリア・オランダ各公使を歴任。内閣制度発足時は外務次官に就任。以後、外務大臣を歴任。その後、駐英公使として陸奥が外相と条約改正に尽力、日英通商航海条約改正に成功。
関連施設:那須別邸
森有禮
もりありのり
1847〜1889
薩摩藩
子爵
幕末は藩洋学校開成所で学び、藩の留学生として英国に留学。帰国後、新政府に出仕し徴士、外国官権判事、制度寮副総裁心得などを務める。明六社を設立するなど、欧米思想啓蒙に尽力。商法講習所(現:一橋大学)設立に参画。内閣発足時は初代文部大臣に就任。憲法発布当日、国粋主義者に襲われ翌日死去。
関連施設:一橋大学
桂太郎
かつらたろう
1848〜1913
長州藩
公爵
陸軍大将
戊辰戦争に従軍。維新後はドイツへ留学。ドイツ公使館付武官となり、ドイツの軍政の調査・研究に従事。帰国後は山縣内閣下で兵制・陸軍官制の改革を行う。日清戦争では第三師団長に就任。第二代台湾総督、東京防禦総督を経て、陸軍大臣に就任。その後、西園寺公望と交代で第11・13・15代内閣総理大臣(桂園時代)を務め、日英同盟締結、日露戦争、日韓併合などを主導した。台湾協会学校(現:拓殖大学)設立。
関連施設:拓殖大学
西園寺公望
さいおんじきんもち
1849〜1940
公家
公爵 元老
戊辰戦争に従軍。その後フランスへ留学。滞仏10年ののち、帰国後明治法律学校を設立。伊藤博文の憲法調査に随行し渡欧。オーストリア、ドイツ、ベルギー各国の駐在公使を務める。文部大臣・外務大臣を歴任後、立憲政友会総裁に就任し、第12・14代内閣総理大臣となる。
関連施設:坐漁荘
寺内正毅
てらうちまさたけ
1852〜1919
長州藩
伯爵
元帥 陸軍大将
戊辰戦争に従軍。維新後は公使館付武官としてフランスへ留学。帰国後陸軍士官学校長、初代教育総監、参謀本部次長などを経て、陸軍大臣に就任。初代朝鮮総督に就任し武断統治を行う。第18代内閣総理大臣就任。シベリア出兵断行。米騒動により総辞職。
山本権兵衛
やまもとごんべい
1852〜1933
薩摩藩
伯爵
海軍大将
戊辰戦争に従軍。軍艦艦長、海軍省主事、大本営海軍大臣副官などを歴任。海軍を陸軍の参謀本部から独立を実現した。その後、海軍大臣を務め、第16・22代内閣総理大臣に就任。
高橋是清
たかはしこれきよ
1854〜1936
仙台藩
子爵
アメリカ留学後、文部省・農商務省に出仕。その後日本銀行に入行し日露戦争の外債募集に手腕を発揮し、横浜正金銀行頭取を経て、日本銀行総裁に就任。大蔵大臣、立憲政友会総裁などを歴にし、第20代内閣総理大臣に就任。高橋財政と呼ばれる積極的な財政政策が特徴。軍事費抑制方針を示し、軍部と対立し2・26事件で暗殺された。
関連施設:赤坂本邸
小村寿太郎
こむらじゅたろう
1855〜1911

飫肥藩
侯爵
維新後、文部省第一回留学生に選ばれハーバード大学に入学。帰国後、司法省に出仕し大審院判事を経て、外務省翻訳局長となる。桂内閣で外務大臣に就任し、日英同盟に調印。日露戦争後のポーツマス会議の全権として日露講和条約を締結した。
犬養毅
いぬかいつよし
1855〜1932
備中国
慶應義塾に学び、郵便報知新聞・東海経済新報記者を経て、立憲改進党創立に参画。大同団結運動で活躍。文部大臣、逓信大臣を経て、立憲政友会総裁に就任し、第29代内区総理大臣となる。
世界恐慌に端を発した大不況で社会不安の中、関東軍の一部が満州事変を起こしたが政府は収拾できなかったが黙認。前首相若槻のロンドン海軍軍縮条約に不満を持った海軍将校は若槻襲撃の機会を狙っていたが若槻内閣が退陣し犬養が首相となる。計画の中心人物であった藤井斉が中国で戦死した事がきっかけとなり、5・15事件が勃発し暗殺された。
原敬
はらたかし
1856〜1921
盛岡藩
郵便報知新聞・大東日報記者を経て外務省に入省。外務次官などを歴任。その後立憲政友会に参加し、西園寺内閣を補佐。立憲政友会総裁に就任し、第19代内閣総理大臣となり、初の政党内閣を組閣するが、東京駅で暗殺された。
後藤新平
ごとうしんぺい
1857〜1929
水沢藩
伯爵


愛知県病院長兼愛知医学校長を経て、内務省衛生局に入局しドイツ留学後局長に就任。逓信大臣 鉄道院総裁 内務大臣 外務大臣 東京市長などを歴任。
関連施設:後藤記念館
加藤高明
かとうたかあき
1860〜1926
名古屋藩
東京帝国大学を主席で卒業し三菱に入社。岩崎弥太郎の長女と結婚。その後、政界に転身し大蔵省銀行局長や駐英大使などを務める。外務大臣を経て、憲政会総裁となり、内閣総理大臣に就任。普通選挙法、治安維持法、日ソ基本条約などを成立させた。
近衛篤麿
このえあつまろ
1863〜1904
公家
公爵
渡欧しボン、ライプチヒ両大学に学ぶ。帰国後、貴族院公爵議員、同議長を務める。藩閥政治に批判的で、国民的政治運動を展開した。学習院院長や枢密顧問官などを務めた。
徳川家達
とくがわいえさと
1863〜1940
江戸
公爵
田安徳川家に生まれ、明治元年に徳川宗家を相続。版籍奉還により静岡県知事となったが、廃藩置県で罷免。その後英国へ留学し帝国議会開設共に貴族院議員となり、貴族院議長を務める。済世会会長、日本赤十字社社長などを務めた。
岡田啓介
おかだけいすけ
1868〜1952
福井藩
海軍大学校を卒業し、海軍省人事局長、艦政本部長、海軍次官を経て、連合艦隊司令長官に就任。ロンドン軍縮会議の際、日本国内の調停約として手腕を発揮。海軍大臣・内閣総理大臣などを歴任した。2・26で九死に一生を得る。
浜口雄幸
はまぐちおさち
1870〜1931
高知県
東京帝国大学卒業後、大蔵省に入省。専売局長官、逓信次官、大蔵次官などを経て、立憲同志会に参加し、政界進出。大蔵大臣、内務大臣を務めたのち、立憲民政党初代総裁に就任し、内閣総理大臣となる。金解禁を断行、ロンドン海軍軍縮条約調印を行う。東京駅で狙撃され重傷を負い、翌年死去。
吉田茂
よしだしげる
1878〜1967
東京府
東京帝国大学卒業後、外務省入省、外交官となる。日独防共協定及び日独伊三国同盟に反対するも軍部に強硬される。太平洋戦争開戦阻止に奔走するも実現できず、憲兵隊に拘束される。終戦後はその活動がGHQの信頼を得ることになった。外務大臣を経て、内閣総理大臣に就任。大日本帝国憲法下最後の首相となる。朝鮮戦争勃発により講和促進機運により、サンフランシスコ平和条約を締結した。
鳩山一郎
はとやまいちろう
1883〜1959
東京府


東京帝国大学卒業後、弁護士事務所を開業。政友会から衆議院議員となり政治家に転身。文部大臣を歴任。太平洋戦争終戦後、日本自由党を立ち上げる。戦後第一回目の選挙で大勝するも総司令部民政局に公職追放される。第52・53・54代内閣総理大臣 自民党初代総裁
関連施設:鳩山会館
近衛文麿
このえふみまろ
1891〜1945
公家
公爵


京都帝国大学卒業後、貴族院公爵議員となる。西園寺公望の随員としてパリ講和会議に出席。貴族院副議長、議長を経て、第34・38・39代内閣総理大臣に就任。大政翼賛会設立、日独伊三国同盟締結。戦後、A級戦犯容疑として逮捕直前に自殺。
関連施設:軽井沢別邸
     
     
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野津道貫
のづみちつら
1841〜1908
薩摩藩
公爵
元帥 陸軍大将
戊辰戦争に従軍。西南戦争では第二旅団参謀長として従軍。東京鎮台司令長官に就任。大山陸軍卿の渡欧に随行して軍政を視察。帰国後、広島鎮台司令官、第五師団長を務める。日清戦争では第一軍司令官として活躍。以後、近衛師団長、教育総監、軍事参議官などを歴任。
関連施設:呉鎮守府
伊東祐亨
いとうすけゆき
1843〜1914
薩摩藩
子爵
海軍中将
幕末は薩英戦争に参加。海軍操練所で学ぶ。維新後は海軍士官となり軍艦の副長・艦長を歴任した。常備艦隊司令官を経て、日清戦争では初代連合艦隊司令長官に就任する。その後、海軍軍令部長となり日露戦争では大本営に入る。
鮫島員規
さめじまかずのり
1845〜1910
薩摩藩
男爵
海軍大将
維新後、海軍に入り、佐賀の乱、西南戦争に出征。軍艦松島の初代艦長、佐世保鎮守府参謀長、常備艦隊参謀長、海軍大学校校長などを歴任した。日清戦争では連合艦隊参謀長に就任。日露戦争では佐世保鎮守府司令長官を務めた。
東郷平八郎
とうごうへいはちろう
1848〜1934
薩摩藩
侯爵
元帥 海軍大将
戊辰戦争に従軍。維新後は英国海軍に留学した。日清戦争では軍艦浪速の艦長として活躍。その後、海軍駝学校長、常備艦隊司令長官、舞鶴鎮守府司令長官などを歴任。日露戦争では、連合艦隊司令長官に就任し、ロシアのバルチック艦隊を日本海海戦で撃破した。その後は東宮御学問所総裁などを務めた。
関連施設:呉邸宅 戦艦三笠
乃木希典
のぎまれすけ
1849〜1912
長府藩
伯爵
陸軍大将
幕末は長州征伐に参加、萩の乱、西南戦争に従軍。維新後は戦術研究の為、ドイツへ留学。日清戦争では歩兵第一旅団長として従軍し旅順を占領。第三代台湾総督に就任。日露戦争では第三軍司令官を務めた。その後、軍事参議官となり、明治天皇の意を受けて学習院院長を兼任。明治天皇大喪の日、妻静子と共に自害。
関連施設:赤坂本邸 那須別邸
児玉源太郎
こだまげんたろう
1852〜1906
徳山藩
子爵
陸軍大将
戊辰戦争に従軍した後、陸軍に入る。佐賀の乱、神風連の乱、西南戦争に従軍し、士族の反乱を鎮圧。その後、陸軍大学校長、陸軍次官を経て、第四代台湾総督に就任。陸軍大臣や内務大臣に就任。日露戦争では満州軍総参謀長として活躍し、陸軍参謀総長となる。
加藤友三郎
かとうともざぶろう
1861〜1923
広島
維新後、海軍兵学寮に入学。日清戦争では軍艦吉野の砲術長を務め、日露戦争では連合艦隊参謀長として東郷平八郎を補佐。その後、海軍大臣を歴任しワシントン会議に首席全権委員として出席。高橋内閣の退陣を受けて、内閣総理大臣に就任。シベリア撤兵、海軍軍縮条約を履行した。
山本五十六
やまもといそろく
1884〜1943
新潟県
海軍大将
海軍大学校卒業後、駐米大使館付武官、空母赤城艦長などを歴任。第一航空戦隊司令官、海軍航空本部長として海軍航空部門の強化に尽力。連合艦隊司令長官に就任。太平洋戦争では、真珠湾攻撃をはじめとした作戦全般を指揮。南方戦線視察中に米軍機に要撃され戦死。
東条英機
とうじょうひでき
1884〜1948
東京府
陸軍大学校卒業後、関東軍参謀長、陸軍次官、航空総監兼航空本部長を経て、陸軍大臣に就任。その後、内閣総理大臣に就任した。立候補者推薦制度による翼賛選挙を行い、独裁的な戦時体制が強化された。終戦後、極東国際軍事裁判でA級戦犯となり絞首刑となった。
     
     
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三井八郎右衛門高福
みついたかよし
1808〜1885
江戸
三井家総領家八代目当主 幕末・維新の際には幕府と朝廷の間を巧みに動き、三井財閥の基礎を固めた。外国奉行所御金御用達を務め、維新後は新政府の銀行行政面で活躍。第一国立銀行・三井銀行・三井物産を設立。
関連施設:三井八右衛門高公本邸 拝島別邸 網町三井倶楽部
岩崎弥太郎
いわさきやたろう
1835〜1885
土佐藩
幕末は高知藩で職を得て、長崎にて貿易に従事。維新後は同藩大阪商会に転じた。廃藩置県に際し事業を引き継ぎ。九十九商会を興し、後に三菱商会、郵便汽船三菱会社へと改称した。台湾出兵の軍事輸送や西南戦争の軍事輸送を担当。鉱山・造船・金融・貿易と多方面に進出し、三菱財閥を創設した。
関連施設:岩崎久弥茅町本邸 殿ヶ谷戸別邸 深川別邸
大倉喜八郎
おおくらきはちろう
1837〜1928
新発田藩
男爵
幕末は乾物屋を営んだ後、大倉屋銃砲店を開業し、戊辰戦争の際、官軍御用を務めて巨利を得る。維新後は大倉組商会を設立し、貿易業に着手。台湾出兵や日清・日露戦争で軍の用達商として活躍した。国内外の投資も積極的に行い、帝国ホテルなども含めた多くの事業を展開し、大倉財閥を創設した。教育にも関心を持ち、大倉商業学校(現:東京経済大学)創設した。
関連施設:大倉集古館
安田善次郎
やすだぜんじろう
1838〜1921
富山藩
幕末は丁稚奉公の後、両替店安田屋を開業。太政官札・公債などの取引、官公預金で蓄財し、東京屈指の金融業者となる。第三国立銀行創立に参加し、安田銀行を開業。日本銀行理事に就任。生命保険・損害保険業にも進出し、安田財閥を築いた。
関連施設:安田楠雄邸 安田岩次郎邸
澁澤栄一
しぶさわえいいち
1840〜1931
埼玉
子爵
幕末はパリ万国博覧会に出席する徳川昭武に随行し、欧州の産業・制度を見聞。維新後は新政府に出仕するが退官して実業界に転身。第一国立銀行総監役、頭取 王子製紙・大阪紡績・東京瓦斯など多くの近代的企業を創立。
関連施設:誠之堂 晩香廬 青淵文庫 清風亭
住友吉左衛門友純
すみともともいと
1865〜1926
京都
男爵
住友家十五代目当主を相続し銅山・炭坑・生糸・貿易業を行い財をなす。住友銀行設立した。
関連施設:住友銀行本店
豊田佐吉
とよださきち
1867〜1930
静岡
織物工場の職工となり、木製人力織機、動力織機を完成させる。三井物産が注目し、豊田式織機鰍創設。
関連施設:豊田佐助邸 豊田喜一郎別邸 豊田紡織本社 自働織機
     
     
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佐久間象山
さくましょうざん
1811〜1864
長野
佐藤一斎の私塾で学び、その後自ら江戸で塾を開く。老中となった藩主真田幸貫より海外事情の研究を命じられ、海防八策を上書。吉田松陰の事件に連座して松代に蟄居。幕府の名を受けて上洛し開国論を主張したが、尊王攘夷派に暗殺される。
吉田松陰
よしだしょういん
1830〜1859
長州藩
佐久間象山に砲術と蘭学を学ぶ。下田港の米国軍艦ポーハタン号に乗り込もうとしたが拒絶され投獄。松下村塾を開校し約80人の門人を集める。安政の大獄によって江戸で処刑された。
関連施設:松下村塾
福沢諭吉
ふくざわゆきち
1835〜1901
大阪


幕末は緒方洪庵に蘭学を学び、幕府の遣欧使節団に参加。西洋事情などの著作を通じて欧米の文化を紹介した。その後、慶應義塾を創設。学問のすすめや文明論之概略など多数の著作を発表した。
関連施設:慶應義塾
新島襄
にいじまじょう
1843〜1890
江戸


幕末は、幕府の軍艦操練所に入る。函館より米国に密航し、理学・神学を学ぶ。維新後は、岩倉遣外使節団に随行して欧米の教育制度を視察。帰国後は基督教の伝導を進め、同志社英学校を設立し、基督教主義に基づく自由教育を唱えた。
関連施設:同志社大学 同志社女子大学 邸宅
大山捨松
おおやますてまつ
1860〜1919
福島
維新後、日本初の女子留学生として津田梅子らと渡米。留学中に看護婦免状を取得。帰国後、大山巌と結婚。鹿鳴館時代には社交界の中心として活躍。愛国婦人会、赤十字篤志看護会などの社会活動や津田梅子と共に女子英学塾(現:津田塾大学)の設立・運営にも尽力した。
新渡戸稲造
にとべいなぞう
1862〜1933
岩手
札幌農学校卒業後、東大に進学するも中退し米国に留学。帰国後は札幌農学校教授、東京帝国大学教授、東京女子大学初代校長などを歴任。その後、国際連盟書記局事務局次長、太平洋問題調査会理事長として活躍した。
関連施設:日本女子大学
津田梅子
つだうめこ
1864〜1929
江戸


維新後、開拓使が募集した女子留学生として、岩倉遣外使節団と共に渡米。初等、中等教育を受け帰国。華族女学校教授就任後、再び渡米しブリンマー=カレッジの生物学選科生となる。帰国後は華族女学校教授に復帰したのち、女子高等師範学校教授を兼任。女子英学校(現:津田塾大学)設立し、女子高等教育の先駆者となった。
関連施設:津田塾大学
     
     
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緒方洪庵
おがたこうあん
1810〜1863
備中国
中天游の私塾「思々斎塾」で4年間蘭学・医学を学ぶ。その後、江戸で坪井信道や宇田川玄真にも学んだ後、長崎へ遊学しオランダ人医師ニーマンのもとで医学を学ぶ。大阪に戻り医業を開業とともに蘭学塾「適々斎塾」を開く。門下生が増加。佐賀藩が輸入した種痘を得て「除痘館」を開く。洪庵の天然痘予防の活動が幕府に認められ、奥医師兼西洋医学所頭取として出仕する。日本近代医学の祖と言われる。
松本良順
まつもとりょうじゅん
1832〜1907
江戸
男爵
幕末は長崎伝習所でオランダ軍医ポンペに蘭学を学ぶ。その後、奥詰医師・医学所頭取助を経て、奥医師・医学所頭取に就任。将軍家茂の診療などを行った。近藤勇との親交もあり隊士の診療も行った。戊辰戦争では幕府陸軍の軍医や奥羽列藩同盟軍の軍医となり、会津戦争後、仙台にて降伏し投獄された。維新後は、山縣有朋の薦めで初代大日本帝国陸軍軍医総監となる。
北里柴三郎
きたざとしばさぶろう
1853〜1931
熊本
男爵
東京医学校卒業後、内務省衛生局に勤務。ドイツに留学しコッホに師事、世界初の破傷風菌培養に成功した。帰国後は伝染病研究所所長に就任。北里研究所を設立。
関連施設:北里研究所
野口英世
のぐちひでよ
1876〜1928
福島
済生学者で学び、医術開業試験に合格。伝染病研究所を経て渡米。ロックフェラー医学研究所で梅毒スピロヘータの純粋培養を行う。黄熱病の病原菌発見の為、中南米・アフリカに赴き、ガーナで感染し死去。
関連施設:長浜検疫所
     
     
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坪内逍遥
つぼうちしょうよう
1859〜1935
岐阜
東京帝国大学卒業後、東京専門学校の講師・教授となる。日本最初の近代的文学論『小説真髄』『当世書生気質』を著し文壇の中心的存在となる。演劇改良運動を始め、俳優養成にも尽力。シェークスピア全集の和訳を完成させた。
森鴎外
もりおうがい
1862〜1922
島根
東京帝国大学医学部を卒業後、軍医となりドイツへ留学。陸軍軍医総監、陸軍医務局長に就任。その後、帝室博物館図書頭。公務のかたわら小説家・翻訳家として活躍。代表作に『舞姫』『うたかたの記』などがある。
関連施設:邸宅 旧宅
二葉亭四迷
ふたばていしめい
1864〜1909
江戸
東京外国語学校中退。坪内逍遥のすすめで近代小説の先駆とされる言文一致体の『浮雲』を発表。ツルゲーネフの翻訳を行った。東京外国語学校教授になるも辞職し大陸に渡る。帰国後大阪朝日新聞社に入社し『其面影』や『平凡』を連載。
正岡子規
まさおかしき
1867〜1902
愛媛
東京帝国大学中退。日本新聞社に入社し「日本」の紙面上を中心に文学活動を行い、俳句・短歌の革新運動を進めた。日清戦争従軍後、喀血し病床生活を送るなか『俳諧大要』を著し、俳誌「ホトトギス」を指導。
夏目漱石
なつめそうせき
1867〜1916
江戸
東京帝国大学卒業後、松山中学、第五高校の教師を経て、ロンドンへ留学。帰国後、東大講師となる。『吾輩は猫である』で文壇に登場後、朝日新聞に入社し専属作家となった。『三四郎』『それから』などを発表した後、大病を経て『こゝろ』『明暗』などの作品を発表。自然主義文学と異なる作風は余裕派と呼ばれ、近代日本の代表的作家とされる。
関連施設:邸宅
尾崎紅葉
おざきこうよう
1868〜1903
東京府
東京帝国大学中退。硯友社を結成し機関誌『我楽多文庫』を発行。『二人比丘尼色懺悔』が出世作となり、読売新聞社に入社。以後同紙に『加羅枕』『多情多恨』などの作品を発表。『金色夜叉』の連載は人気を博したが病没の為、未完に終わった。
国木田独歩
くにきだどっぽ
1871〜1908
千葉
東京専門学校中退。国民新聞社に入社し日清戦争に記者として従軍。その後、新聞雑誌に発表した詩を『独歩吟』としてまとめる。次いで浪漫的短編集『武蔵野』を刊行、『独歩集』『運命』などで自然主義の先駆とされる。
樋口一葉
ひぐちいちよう
1872〜1896
東京府
中島歌子の歌塾萩の舎に入門。その後、半井桃水に師事して小説を書き始める。『うもれ木』が出世作となり文学界の同人と交流を得た。『にごりえ』『たけくらべ』などを発表した。
島崎藤村
しまざきとうそん
1872〜1943
長野県
明治学院卒業。詩人として雑誌『文学界』を創刊。『若菜集』『一葉舟』などを刊行し、新体詩人として名声を博した。後に小説家へ転身し、『破戒』によって自然主義文学の代表的作家となり『新生』『夜明け前』などを発表した。
関連施設:小諸時邸宅
与謝野晶子
よさのあきこ
1878〜1942
大阪府
堺女学校卒業後、関西青年文学会に参加、与謝野鉄幹の東京新詩社に参加し、『明星』誌上に短歌を掲載。『みだれ髪』を発表、話題を呼んだ。鉄幹と結婚。その後も日本浪漫主義を代表する歌人として多くの歌集を発表した。日露戦争の際に発表した『君死にたまうことなかれ』も著名。『源氏物語』の現代語訳、文化学院の創設への参加など短歌以外にも幅広い分野で活躍した。
志賀直哉
しがなおや
1883〜1971
宮城県
学習院高等科卒業後、東京帝国大学に進学するも中退。武者小路実篤、有島武郎らと『白樺』を創刊し『網走まで』を発表。その後、執筆中断の時を経て『城の崎にて』『和解』『暗夜行路』などを著す。小説の神様と呼ばれる。
石川啄木
いしかわたくぼく
1886〜1912
岩手県
岩手県玉山村生まれ。1902年盛岡中学を自主退学して上京、与謝野鉄幹・晶子夫妻を訪ねる。 病気で帰郷の後、1905年詩集『あこがれ』刊行。 故郷での代用教員、北海道での新聞記者生活のなどを経て、1910年『一握の砂』出版。 1912年肺結核のため東京で永眠。第二歌集『悲しき玩具』は死後出版された。
芥川龍之介
あくたがわりゅうのすけ
1892〜1927
東京府
東京帝国大学在学中に発表した『鼻』が夏目漱石に評価され文壇に登場。卒業後は海軍機関学校の嘱託教官として英語を教える傍ら、『芋粥』『羅生門』などを発表。海軍機関学校を辞職し大阪毎日新聞社に入社し文筆活動に専念するも36歳で自殺した。
宮沢賢治
みやざわけんじ
1896〜1933
岩手県
岩手県生まれ。盛岡高等農林卒。花巻で農業指導者として活躍のかたわら創作。自然と農民生活で育まれた独特の宇宙的感覚や宗教的心情にみちた詩と童話を残した。生涯、法華経を敬信。童話『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』、詩集『春と修羅』など。
関連施設:盛岡高等農林学校
川端康成
かわばたやすなり
1899〜1972
大阪府
大阪府生まれ。東京帝国大学文学部英文学科に入学するも国文学科に移り『新思潮』を創刊。菊池寛らに評価され、文藝春秋の同人となる。その後、文藝時代を創刊し『伊豆の踊子』を発表。『雪国』で文芸懇話会賞を受賞。国際ペンクラブ会長や日本近代文学館の監事などに就任。日本の美を表現した作品を発表し、日本人初のノーベル文学賞を受賞した。
太宰治
だざいおさむ
1909〜1948
青森県
17歳の頃『最後の太閤』を書き同人誌を発行。その後、弘前高等学校に入学すると泉鏡花や芥川の作品に影響される。東京帝国大学文学部授業料未納で除籍される。女給で人妻である田部シメ子と出会い、入水自殺を図るもシメ子は亡くなり太宰は生き残る。その後、作家として短編『列車』や『逆行』を発表。その後も数度の自殺未遂を図る。井伏鱒二の招きで山梨へ移住し精神的に安定し、『富嶽百景』や『走れメロス』などの優れた短編を発表した。戦時下も『津軽』や『お伽草子』などの創作活動を継続。戦後、長編小説『斜陽』が評判を呼び、流行作家となる。『人間失格』などを書き上げたのち、愛人と入水自殺。 
関連施設:津島邸(斜陽館)
     
     
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市川團十郎
いちかわだんじゅうろう
1838〜1903
江戸
江戸生まれ。歌舞伎俳優。七代目の五男。河原崎家の養子となったが、明治7年(1874)九代目団十郎を襲名する。演劇改良運動に熱心で従来の荒唐無稽を排した活歴物を主唱、上演した。また、『新歌舞伎十八番』を制定。広い芸域の中で特に時代物を得意とし、第一人者として絶大な人気を博して同時期に活動した五代目尾上菊五郎、初代市川左団次とともに「団菊左」と称された。俳優の社会的地位の向上に貢献したことでも知られる。
関連施設:歌舞伎座
高村光雲
たかむらこううん
1852〜1934
江戸
仏師高村東雲の門に入って木彫を学び、高村の姓を継ぐ。内国勧業博覧会で最高賞を受賞。東京彫工会を設立。代表作に『老猿』『楠公像』『西郷隆盛像』などがある。
黒田清輝
くろだせいき
1866〜1924
薩摩藩
渡仏しラファエル・コランに師事、帰国後に白馬会を創立した。東京美術学校教授に就任。「文展」創設した。洋画家として初めて帝室技芸員となる。帝国美術院院長に就任し、洋画の啓蒙・教育とアカデミズムの確立に尽力した。代表作に『読書』『舞妓』『湖畔』などがある。
関連施設:黒田記念館 東京美術学校
瀧廉太郎
たきれんたろう
1879〜1903
東京府

東京府生まれ。日出藩の家老職を勤めた上級武士の家柄。東京音楽学校卒業後は研究科に進み、作曲とピアノの才能を伸ばした。世間で日本人作曲家の歌を望む声が高まる中、『荒城の月』や『箱根八里』が文部省編纂の中学唱歌に掲載され、組曲『四季』などの童謡作品が幼稚園唱歌に掲載された。その後、日本人として2人目の音楽家留学生としてドイツのライプツィヒ音楽院に留学。ピアノや対位法などを学ぶが、肺結核を発病し1年で帰国。
関連施設:東京音楽大学奏楽堂
     
     
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島津斉彬
しまづなりあきら
1809〜1858
薩摩藩

幕末四賢候
薩摩藩主。藩の富国強兵に努め洋式船、反射炉・溶鉱炉の建設、地雷・水雷・ガラスの製造などの集成館事業を興した。アメリカから帰国した中浜万次郎を保護し、藩士に造船法などを学ばせた。他藩主らと共に幕政改革を訴えた。幕府十四代将軍継嗣問題で大老井伊直弼と対立するも敗れた。抗議の為、上洛を計画したが、急病により死去。
井伊直弼
いいなおすけ
1815〜1860
彦根藩
大老
彦根藩第15代藩主となる。大老に就任しれ事実上の幕府最高権力者となり将軍継嗣問題の解決や日米修好通商条約に調印し開国近代化を断行した。安政の大獄により反対派を処罰し、独裁政治に対する反発から桜田門外において水戸脱藩浪士に暗殺された。
島津久光
しまづひさみつ
1817〜1887
薩摩藩
公爵
幕末は斉彬との家督争いに敗れるが斉彬が没すると自身の長子忠義襲封すると国父として藩の実権を握る。公武合体運動の中心的存在となり、藩兵を率いて上京。尊壌激派を抑制する一方、江戸へ下り幕政改革を推進。帰途、生麦事件を起こし薩英戦争の引き金となる。維新後、左大臣となるが欧化政策に反対し辞官。
関連施設:邸宅
伊達宗城
だてむねなり
1818〜1892
江戸
侯爵

幕末四賢候
幕末は宇和島藩主伊達宗紀の養子となり、養父隠居に伴い藩主を就任する。殖産興業を中心とした藩政改革を発展させた。大老井伊直弼と将軍継嗣問題で対立し敗れ隠居謹慎となる。謹慎後は公武合体を推進した。維新後は新政府の閣僚に名を連ねたが、戊辰戦争が始まると薩長の行動に抗議して辞任。その後、民部卿兼大蔵卿となって鉄道敷設や欽差全権大使として清との間で日清修好条規に調印などを行った。
毛利敬親
もうりたかちか
1819〜1871
長州藩
幕末は長州藩主として藩政改革を断行。桂小五郎らが主導する攘夷を支持し、外国船の打ち払いなどを実行。八月十八日の政変により長州藩は京を追われ、池田屋事件で多くの藩士が新撰組によって殺害・捕縛されると出兵し禁門の変を引き起こした。西洋式軍制を採用し大規模な軍事改革を行う。薩長同盟を結び第二次幕長戦争に勝利すると英国との関係を構築し、討幕の密勅を受け、薩摩藩と共に官軍を組織して王政復古のクーデターを成功させる。維新後は版籍奉還を奉請した。家督を元徳に譲り隠居。
山内豊信(容堂)
やまうちとよしげ
1827〜1872
土佐藩

幕末四賢候
幕末は土佐藩主として藩政改革を断行、吉田東洋を登用し成果を上げる。幕政にも参加し将軍継嗣問題では大老井伊直弼と対立し敗れ謹慎。以後、公武合体派として幕政改革に乗り出し、土佐勤王党を弾圧、藩内の尊攘激派を鎮圧する。後藤象二郎の進言を受け入れ徳川慶喜に大政奉還を建白。維新後は議定や制度寮総裁などを務めた。
松平慶永(春嶽)
まつだいらしゅんがく
1828〜1890
江戸
幕末四賢候
幕末は福井藩主として藩政改革を推進。将軍継嗣問題で大老井伊直弼と対立し、安政の大獄で謹慎を受ける。その後、政事総裁職に就任し幕政改革にあたる。公武合体派として幕府と朝廷の間を調整。維新後、新政府では内国事務総督、民部卿、大蔵卿などを歴任。
近藤勇
こんどういさみ
1834〜1868
江戸
江戸の天然理心流近藤周助の養子となり道場を継ぐ。将軍家茂の上洛に際し警護の為に組織された浪士隊に参加。上洛後そのまま京に残留し、京都守護職松平容保の下、新撰組となり、京都の治安維持を担当。のちに局長に就任し、見廻組頭取として幕臣となる。鳥羽伏見の戦に敗戦後、江戸に戻り、甲陽鎮撫隊を組織し官軍と戦うが、下総流山で捉えられ斬首された。
坂本竜馬
さかもとりょうま
1835〜1867
土佐藩
北辰一刀流千葉定吉に師事。武市半平太が結成した土佐勤王党に参加するも脱藩して江戸に出て、勝海舟の門下生となる。神戸海軍操練所建設に尽力。その後長崎で亀山社中(海援隊)を設立。薩長連合締結に奔走し、西郷隆盛と木戸孝允の盟約に立ち会った。独自の国家構想である「船中八策」をまとめた。中岡慎太郎と共に京都で暗殺された。
土方歳三
ひじかたとしぞう
1835〜1869
江戸
江戸の天然理心流近藤周助の門弟となる。将軍家茂の上洛に際し警護の為に組織された浪士隊に参加。上洛後そのまま京に残留し、京都守護職松平容保の下、新撰組となり、京都の治安維持を担当。のちに副長に就任し、見廻組肝煎各として幕臣となる。鳥羽伏見の戦に敗戦後、江戸に戻り、甲陽鎮撫隊を組織し官軍と戦うが敗れ、その後、宇都宮・会津などで転戦、函館五稜郭で戦死した。
小松帯刀
こまつたてわき
1835〜1870
薩摩藩
幕末は薩摩藩家老として薩長連合締結や大政奉還実現に尽力。 維新後は、明治政府総裁局顧問など要職につくも病気の為、官職を辞した。
山岡鉄太郎(鉄舟)
やまおかてつたろう
1836〜1888
江戸 幕臣
子爵

幕末三舟
幕末は幕府の講武所で剣術の教授世話役となる。浪士組の浪士取扱となり上京。徳川家存続の為、駿府に赴き西郷隆盛と談判し、勝海舟との会談を実現。江戸城無血開城に貢献。維新後、静岡県権大参事、伊万里県令、茨城県参事などを経て宮中に出仕。明治天皇の側近として仕えた。
松平容保
まつだいらかたもり
1836〜1893
高須藩
会津藩主を襲封後、京都守護職に任じられ上洛。八月十八日の政変で長州藩の勢力を京都から駆逐、京都の治安と公武合体に尽力し、孝明天皇の信頼を得る。禁門の変で長州勢を攻撃。王政復古で京都守護職を免ぜられ、鳥羽伏見の戦で敗れる。会津で謹慎したが新政府に攻められ降伏。戊辰戦争後は日光東照宮宮司となった。
徳川慶喜
とくがわよしのぶ
1837〜1913
江戸
公爵
一橋家を相続。家定の継嗣をめぐり井伊直弼と対立し、安政の大獄で謹慎を受ける。朝命により家茂の後見職となり幕政改革を推進。その後、江戸幕府第15代将軍となる。土佐藩の建白により大政奉還を行った。徳川家の復権を図るも討幕派に敗れ恭順、謹慎。維新後は駿府に居住。
中岡慎太郎
なかおかしんたろう
1838〜1867
土佐藩
土佐勤王党に参加するも藩に弾圧されると脱藩して長州に行き尊王攘夷運動の中心として活躍。坂本竜馬と協力して薩長連合締結に尽力し実現する。その後、陸援隊を組織して隊長となる。以後、武力討幕を目指して活動していたが、坂本竜馬と共に京都で暗殺された。
高杉晋作
たかすぎしんさく
1839〜1867
長州藩
松下村塾に学ぶ。萩藩外国船攻撃の際に登用され、奇兵隊を結成し外国勢と戦う。四国連合艦隊との講和についてて正使として活躍。薩長連合締結に貢献。
毛利元徳
もうりもとのり
1839〜1896
徳山藩
公爵
萩藩主毛利敬親の養子となる。世子時代は尊王攘夷運動を支持し国事に奔走、禁門の変では官位を剥奪されている。王政復古とともに官位が復され、議定・参議などに就任。維新後は山口藩知事、第十五国立銀行頭取などに努めた。
関連施設:毛利本邸
     
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